阪大原子核実験施設50周年記念講演会

阪大原子核実験グループの足跡と果した役割 (記念講演会の感想)

かつて理学部があった阪大中ノ島キャンパスの跡地に建っているメモリアルセンターで原子核実験施設50周年記念の講演会が開かれた。この施設は、東大原子核研究所と同時に発足し50年の歴史をもつが、阪大の原子核研究の歴史はさらに古く1932年に遡る。
講演会は、平尾、杉本両先生の講演から始まった。
阪大菊池研究室は阪大の創設と共に始まった。菊池先生を中心に戦前の菊池研究室は世界のトップ水準の成果を挙げてきた。コッククロフト加速器による菊池-熊谷(青木)-伏見先生の中性子物理の実験、サイクロトロンの建設とそれを用いた、菊池-伊藤先生によるβ線スペクトルの正確な測定、菊池-若槻先生による影散乱の発見など多くの業績がある。


この輝かしい時代は、しかしながら不幸なことに戦争によって遮られ終戦サイクロトロン米国占領軍によって爆破されて大阪湾に捨てられた。この占領軍の蛮行は米国内の学者間に批判がおこり、やがてローレンスが訪日し米占領軍を説得して復興が始まった。そこで、最初に阪大のサイクロトロン第2号が建設された。
戦前のサイクロトロンが占領軍に接収・爆破・放棄された状況と、戦後のサイクロトロン再建の状況を記録した映画が平尾さんによって紹介された。再建作業に参加された多くの先輩が登場され印象的であった。菊池・山口・伊藤・若槻・国府・真田・小田・吉沢・武田・能沢・平尾・小林・尾崎・近藤・溝渕・・・の諸先生、諸先輩である。後に日本の原子核研究をリードした方々である。当時は、設計から建設まで、総べて自力で進められた。


1955年に原子核実験施設が発足したときにはサイクロトロンは完成していた。その同じ年に全国共同利用研究所として発足した、東大原子核研究所の所長に菊池先生が就任されることになり、この大事業の基礎となるFF/FMサイクロトロンと電子シンクロトロンの建設に山口・真田・小林らの精鋭が移り、その頃は物性研に居られた熊谷先生も参加された。自力でサイクロトロンを建設した阪大グループは原子核研究の新体制建設に直接間接に大きく貢献した。
阪大サイクロトロンでは若槻先生が中心になって、若杉山(若槻・杉本・山部)と呼ばれた3研究室共同体制ができ、サイクロトロンのビームを用いた原子核反応・原子核構造の研究に開拓的研究でα(山部/近藤)・β(吉沢/能澤)・γ(若槻/平尾)・ε(小田/武田)グループが競い合っていた。
阪大にはもう一つ、ヴァンデグラーフ型静電高圧加速器があった。戦前に設置されたが、若槻・杉本による大改造によって実験に用いられルようになったのは戦後の1950年代後半であった。δ(杉本/溝渕)グループが核モーメントの研究に活用した。


ところが1961年秋に第二室戸台風による高潮の襲来を受け実験室は役2mの水の中に没した。この水害がきっかけで阪大理学部は豊中キャンパスに移転した。その機会にヴァンデグラーフ型加速器は新規にHIVEC社の4MV加速器を輸入し加速器の増強より物理の新展開に重点を置いたが、サイクロトロンはそのまま移設された。そのころ、サイクロトロンについては、AVF型の大型機を作りたいという機運が全国的に高まっていた。この希望は共同利用研究の将来計画の議論に飲み込まれ、高エネルギー計画、宇宙線計画と並んで進まざるを得ないのでとんでもなく時間がかかった。いろいろな紆余曲折をへて、最終的には1971年に阪大付属の共同利用研であるRCNPの発足、AVFサイクロトロンの建設という考えにまとまり実現に漕ぎ着けた。これには若槻先生を中心として山部・近藤・三浦ほかの阪大組と京大グループの献身的な努力があった。一方、関東の原子核研究所のサイクロトロンも増強したいというので、核研からの強い要請を受けて平尾さんが移りSFサイクロトロンを建設した。阪大理学部の主戦力は全国に散らばり各地で活躍するようになった。


この頃から、阪大原子核グループは大きく変った。多くの人材を他大学・研究所に送り出す一方で、人事の交流に力を入れて、東大から八木さん、江尻さん,長島さんを教授に迎えた。それまで、阪大の物理教室には高エネルギー物理も中間エネルギー物理もなく、低エネルギー核物理の牙城のようであった。長島さん、江尻さんの強力なリーダーシップのお蔭で、雰囲気はすっかり変わった。学生にとって魅力的な世界が広がった。そして、今日の阪大原子核グループには、岸本原子核実験施設長を中心に、下田・松田・能町・山中・久野・篠原らのグループが次世代を拓く態勢が整えており、伝統は伝統として、それよりも新しい未来に期待すべきあると感じた。

50周年記念事業に参加して、カピッツアの話「研究所の老化現象」2006-01-15  を思い出していた。やはり、次々と若い学生が現れ、人事交流が盛んな大学は「老化」しないというお手本のようなものだと思った。