報告 : アルス・タウンミ−ティングシリーズ[第1部]の印象

速報 : アルス・タウンミ−ティングシリーズ 2 [第1部]  文責:中井浩二 


2011年 7月23日(土),31日(日)、8月1日(月) にアルスタウンミーティングシリーズ2011[第一部]を開きました。
今回は新しい試みとして,7月23日と31日の会議を東大理学部、阪大RCNP、東北大理学部の3つの会場を結んだTV会議形式で行いました。試みは成功したようで何人かの副会場参加者に喜んでもらえました。今後も続けたいと考えています。詳しくはここをご覧下さい。


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 <アルスコンベンション>
  アルスの会では申し合わせにより会合参加者の敬称をすべて"○○さん"と呼ぶことに決めました。
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さて、アルスタウンミーティングシリーズ2011は「科学と社会」の接点というタイトルのもとに「科学と社会」の在り方を考えることを目的として企画しました。きっかけは、不幸な福島の原発事故にありますが数多くの被害者を生んだ、或はなお生みつつある、この事故については、事故そのものばかりでなくこの事故に対する政治・報道の渦の中で、アルスの会は少し距離をおいて冷静に「科学と社会」の在り方を反省したいと考えています。福島の原発事故から、原子力発電の危険性を学んだ社会では反原発或は脱原発の世論が高まっています。当然の結果でありましょう。しかし原子核科学に携わってきた者には残念な思いであります。原発をやめるかどうするかという性急な議論の前に、事故の本質的原因は何か、風評被害も含めて事故の後始末をどうするか、今後どうするかという問題について深く考えることは大切で、討論の結果を集約してなんらかの訴えをしたいと考えますが、それらの問題を考える一連の討論の中から「科学と社会」の在り方を考えることになればと期待しています。

タウンミーティングシリーズは第1部から3部に分けて企画していますが,先ず第1部では
「わが国の原子力研究草始期の夢とその後」といういうタイトルで、わが国の原子力行政を振り返り反省しました。
福島の事故について若い研究者から「原子核研究者は何をしていたのか」と問われ、思い浮かべたのは,その昔原子力研究をはじめた頃の学先輩方のご努力でした。そこで7月23日のミーティングでは,先ず小沼さんに「わが国の原子力研究草創期の夢と期待:日本学術会議」というお話をお願いしました。さすがに、小沼さんのお話科学史の1断面を語るような完璧なお話でした。アルス文庫に収録してある伏見康治先生の自伝的著書「時代の証言(抜粋)」にも記された戦後の学術会議にを中心とした学界の諸先輩のご努力を正確に浮き彫りにされました。
戦後、占領軍によって禁止されていた原子核研究は、戦前の実績もありローレンスなど米国の友人の助けもあって比較的早く再興できたが、原子力研究は1951年のサンフランシスコ講和条約が発効する1952年まで待たされました。その間に日本学術会議が発足し、「学問・思想の自由保障委員会」ができて、羽仁五郎委員長が「占領下に於ける原子核物理の研究の自由」に関する調査を提唱し、坂田・武谷委員に委嘱されました。坂田•武谷先生は原子力の平和利用推進に早くから積極的でした。伏見先生も原子力研究を始めるべきだと考えて居られました。
講話条約の発効を待って原子力研究を始めるために伏見先生は学術会議第四部長の依頼を取り付け調査活動を始められ大論議が起りました。第一に反対を唱えてきたのは若手の早川先生であったと「時代の証言」に書いて居られます。当時、物理の分野で早川・山口・藤本による優れた業績が注目されていましたが,その山口さんがこのタウンミーティングに出席して居られたので小沼さんが直接お考えを訊かれたところ、当時の考えはいずれも勉強不足でで危険きわまりないと思ったという返事でした。さらに山口さんは,その後の茅・伏見提案について多くの抵抗や反対意見があったが,何よりも三村剛昂広島大学理論物理研究所長の演説であったと強調されました。三村先生は広島原爆の被爆者で後遺の火傷もある方で、その方の声涙ともに下る大演説で「米ソの対立が解けるまでは,決して原子力に手を出すな」と主張された結果、茅伏見提案が取り下げられました。

7月31日のミーティングでは、住田さんが原子力創設期の産業界の反応について話されました。益比古・森一久さん達のリーダーシップと、原子力研究に強い意欲をもって取り組まれた住田さん達若手(当時)の猛勉強の様子はよく伝わりました。しかし、原子力産業を興そうとするには、必ずしも業界に強い意欲があったと言えず、むしろ戸惑いがあったという住田さんのお話は驚きでした。関西電力は熱心であったが東京電力は慎重であったと話されました。原子力の魅力と,それが招くかもしれない危険について勉強が追いつかなかった、その結果、経済的効果についても確信が持てなかったことと思われます。そして、正力・中曽根の二人の政治的意欲に基づく強い指導力に引かれて原子力産業が興ったという印象が強く残りました。アイゼンハワーの国連演説などで世界中が原子力に注目する中で
敗戦国日本がそのハンディキャップを振り切って世界に肩を並べるには必要なことで、正しい政治判断であったかも知れません。しかし、正力・中曽根の強引な進め方の背景にはアメリカの影響がなにとなく感じられました。しかし、7月3日のミーティングで山口さんが指摘されたように原子力を或はその基礎となる原子核物理を理解していない人達が進める危険性はこの段階にあったと言えるでしょう。伏見先生は,原研ができた段階から、もっと原子核実験の実力を身につけた人が参加すべきだとお考えでした。

8月1日のミーティングには、伏見先生のご努力もあって、創設途上の原研に途中から参加された能澤さんにご講演をお願いした。タイトルは「高速炉、高温ガス炉、軽水炉軽水炉、舶用炉」であった,いずれも原研が技術輸入の体制を脱却し,独自の力で取り組んだ大きな課題であった。能澤さんは、これらの難しい課題を適確に処理してこられた。











<未完>

中井 (nakai@post.kek.jp)