KEK-PS 運転終了記念シンポジウム

KEK-PS 運転終了記念シンポジウム:パネルディスカッションの印象


KEK-PS の運転終了に当り、その成果と歴史的役割を振り返る記念シンポジウムが、5月19日につくば国際会議場で開催された。プログラムは次に示すように、第一部「講演」と第二部「パネルディスカッション」で構成されていた。

  第一部 講演
      木村嘉孝:陽子加速器の発展と展望
      小林 誠:素粒子原子核物理の最前線
      高野幹夫:物質・生命科学の最前線
      永宮正治:J-PARCが拓く21世紀の科学
  第二部 パネルディスカッション「陽子加速器を基盤とする科学と技術の展開」
   ・12GeV陽子加速器の果した歴史的役割と成果、素粒子原子核物理の未来展望
       (パネリスト) 長島順清:素粒子物理、山崎敏光:原子核物理
   ・ブースター利用の果した歴史的役割と成果、物質・生命科学の未来展望
       (パネリスト) 遠藤康夫;中性子科学、永嶺謙忠:ミュオン科学、辻井博彦:医学利用


 パネルディスカッションのモデレーター役は中井がつとめた。5人のパネリストは、KEK-PSの主リング並びにブースターリングで展開された5つ研究分野におけるリーダー格の方々であった。
講演者・パネリストの発表資料 (pdfファイル) は http://www-ps.kek.jp/kekps/KEKPS35/index.html に掲載されている。また、正確な記録は事務局が準備している。ここでは、パネルディスカッションに関して、モデレーターをつとめた中井の感想・感慨を記すことにする。


最初に長島さんはPS実験の歴史を3つの時期に分けて振返り、各時期をPS第1, 第2, 第3期と名づけた。
第1期は戦後の混乱の中から東大核研の電子シンクロトロン(ES:1.3GeV) を足場にして立ち上がった我が国の高エネルギー研究が、始めて取得した本格的高エネルギー加速器であるPSを舞台にして研究・教育の両面で世界の高エネルギー物理クラブ入りを果した時代であった。PSは高エネルギー研究者が永年の努力の末に建設したものであり、高エネルギー研究のプログラムが主であったが、海外における研究の発展に比べると多くの実験に対し加速器は既に時代遅れであった。それでも世界に並ぶ研究実験を始め世界に追いつく研究活力の育成に成功し、蓄えた実力はトリスタン実験で開花した。
第2期は、主力がトリスタン計画に移った高エネルギー研究に代わって原子核研究が台頭した。これと並ぶ素粒子実験では、K中間子崩壊の精密測定による弱い相互作用の研究で標準理論を超える現象の探索を行って世界と競った。
第3期の中心テーマは、長基線ニュートリノ振動実験であった、つくばにあるPSで発生させたニュートリノを250km西方の神岡にある水チェレンコフ検出器スーパーカミオカンデに向かって放出し、その振動を観測してニュートリノ質量の存在を確認する実験は、世界中の研究所が直ちには真似のできないものであった。当然世界の注目するところとなり、各国からの実験者を集めた国際共同実験となった。ほぼ同時期にトリスタンリングに建設されたBファクトリーによる実験と並んで世界の最先端に立つ業績を挙げた。


山崎さんの話の主題は、上に述べた第2期・第3期に展開した原子核研究についてであったが、素粒子原子核・原子の物理に跨がる広くて豊かな話であった。PS原子核研究の中軸となったハイパー核研究では、(π、K)反応によるハイパー核生成やガンマ線の観測など新技術の開発によって、ハイパー核構造の研究が進み、また、ダブルハイパー核の発見など世界をリードする成果が得られた。その一方で、PS実験の中から予想もしていなかった驚くべき問題が次々と掘り起こされ、新しい研究の種が生まれた。「反陽子のつくるアトモレキュール:反物質」「パイ中間子などを含む原子核」「K中間子の創る高密度核クラスター」など、常識では予想もできなかった現象が次々と明らかにされ、研究はKEK-PSからCERNやGSI等に広がって国際的舞台で展開された。今後の J-PARC での結実を期待したい。
 山崎さんは、らせん階段を登るように、試行錯誤、失敗と成功を繰り返し、セレンディピティ(思わぬものを偶然に発見すること)の連鎖を招いたと話されたが、セレンディピティを研究に活かされる環境、つまり失敗を許し成果を急がない環境、の大切さを指摘された。山崎さんがKEK-PSを「プレイグラウンド」と呼んで物理を楽しまれた精神が J-PARC にも引き継がれることを期待したい。


 後半は、ブースター利用研究について「中性子科学」「ミュオン科学」「医学利用」の3つの分野の成果が3人のパネリストによって論じられた。
KEK-PSは、主リングで陽子を12-GeVまで加速する前に、ブースターシンクロトロンで陽子を500-MeVまで加速し、その一部を主リングに入射している。加速の効率を上げてビーム強度を強くするためである。その際、主リングが入射された陽子を12 GeVまで加速する間、ブースターリングが造り出す500 MeV のビームパルスはビームダンプに捨てられていた。この余剰ビームを利用して中性子を発生した中性子科学・ミュオン科学・医学利用がKEK-PSのもう一つの重要な柱となり、学際性に富んだプログラムを展開した。


 遠藤さんは、加速器によるパルス中性子利用の歴史から話を始められた。1944年に東北大学の木村一治教授は熱中性子或は更に低エネルギーの中性子が物性論と強い関連を持つであろうと予測された。その時、原子炉は未だ世界に存在していなかった。その次の年シカゴで原子炉がフェルミによって建設され、やがて原子炉の中性子を用い実験が物性物理の一つの主流を形成したが、1980年に世界初のパルス中性子源KENSが東北大学石川義和教授によって建設された。当初はパルス中性子源の魅力を理解しない物性研究者が多くて石川教授が嘆いておられたが、関係者の努に力によって今日では石川教授の嘆きが嘘のように思える程発展した。凝集体でのプロトンの量子トンネル励起、高分子での架橋の運動、高温超伝導体の結晶構造などなど多くの研究成果が生まれた。また、KENSで積み重ねた技術開発は英国のISISで活用されている。やがて、東海においては J-PARC のパルスビームとJRR-3 の定常ビームによる中性子を一体に考えて共同利用できるという魅力的な環境が生まれようとしている。
 J-PARCによって画期的に増強される中性子ビームは、従来より高精度の実験を可能にし物質科学の研究とその応用において明るい未来の展望が期待されるが、生命科学においても期待は大きい。特別にコメントをお願いした茨城大学の新村教授は、大強度の中性子ビームを用いることによって水や水和物の精密な測定が可能になることから構造生物学の新しい展開が期待できることを強調された。 


 永嶺さんは、ミュオン科学の多彩な成果を紹介された。μSR法を用いた基礎物理から物質科学・生命科学の研究、ミュオン触媒核融合過程の研究、宇宙線ミュオン用いた火山や溶鉱炉対象の巨大ラジオグラフィーなどなど、基礎から応用に至る技術開発に多くの成果を残し、次の J-PARC における一層の発展を促す種を育てた。そもそもプロジェクトの始まりに当ってはパルスビーム利用の難しさが心配されたが、そのようなことを忘れてしまう程ブースタービーム利用の特色を活かす技術開発が重ねられ、超低速ミュオンの生成とその利用など独創性豊かな開発は世界一である。また、極低温技術、超伝導技術、レーザー技術、などの導入により研究テーマが広がった。
 ミュオン科学も開始当初は物性研究の手法としての評価を獲得するまで大変な苦労があった。ミュオンに魅せられて人生を賭けた永嶺さんの粘り強い努力が、この新しい分野を育てあげ、KEK-PS ブースター利用実験から J-PARC計画の一つの柱として期待を担うものになった。


 辻井さんが話されたブースタービームの医学利用も世界をリードする成果を挙げた。筑波大辻井教授(当時)による筑波大学陽子線治療センターのプロジェクトは、ブースターから得られる高エネルギーの陽子ビームを用いて、悪性腫瘍の粒子線治療を始めた。1983年のことである。当時陽子線治療は新しい療法であり、世界の数カ所で始まっていたが、いずれも陽子のエネルギーが低いのでその対象は表層癌に限られていた。ブースターによる陽子線治療では陽子のエネルギーが高いので、世界で始めて深部癌への適用に挑戦して成功を収めた。ここで筑波大グループが得た陽子線治療の経験は世界に広がり、我が国でもその後各地で陽子線治療が始まった。やがて放射線総合医療研究所に重イオン加速器 HIMACが建設され、筑波大から招かれた辻井教授がリーダーとなって始められた重粒子線医療が大成功を収めている。粒子線医療の究極の姿をみると、その原点としてのブースターにおける陽子線治療の経験が頭に浮かぶ。


 こうして、5人のパネリストによる5つの分野の話を聞いていると、いずれも”0”から出発して世界をリードするトップレベルに辿り着いたという歓びと誇りが 感じられる。


 35年の歴史をもつKEK-PSの終幕は、次に登場するJ-PARCへの発展的継続に対する期待に満ちたものであるが、その運転終了は、ひとつの時代の終わりであると感じた。それは、第二次世界大戦による廃墟から立ち上がり、先ずは東大核研のESおよびFF/FMサイクロトロン、そして、それを継いだKEK-PSが支えてきた原子核科学半世紀の成長発展過程の終わりである。この半世紀を結ぶには輝かしい結末であったという感慨が湧き上がって来た。
 多くの困難を超えて道を拓いて下さった先輩のご努力、それに応えた各世代の研究者に対し、みんなで最大の敬意を表したいと思った。
                                     (文責:中井 浩二)